2年半


フォーカシングの勉強仲間と話をしていて、はじめて会ったときからするとお互いにずいぶん芯がしっかりしてきたね、と言いあった。

彼女に言わせると、およそ2年半前に出会った当時、私はチマチマしていたそう 笑。
たしかに不安や怖れが大きかった。

それでも「この道だ」と感じたところを、たくさんの方の手をお借りしながら何とか歩き続けて、小さな実感を積み重ねてきたらココに辿りついた。

今の私はどっしりと根を張り幹が伸びて、まだ満開ではないけれどもう花が咲きはじめているように見えるそう。


私と出会ったとき、彼女は自分が「さまよっていた気がする」と言い、私もなんとなく心もとない雰囲気を覚えている。

フォーカシング以外にも、自分を掘り起こし向き合うワークを重ねてきた今の彼女は、どこかスッキリと落ち着いて見える。


お互い2年半かけて「これでいいのかな」という不安と向き合いながら進み、ようやく「自分はこうである」とそのままに受け入れることができるようになったのかな。



*****
HP→惑星ノート


化学反応

人と人とは、お互いに影響をあたえあっていると思う。

フォーカシングをしているとき、リスナーという、話を聞きながら、感覚や感情をみつけるのを手伝ってくれる人がいる。

(フォーカシングは、自分の体の感覚から、その感覚を引き起こした感情をみつけていく、カウンセリングの技法。)

そのリスナーが変わると、フォーカシングのときに、自分のなかに出てくるイメージが全然ちがうことに気付いて、興味深く思ったことがある。


あるリスナーのときには、可愛らしい子供が、私の感覚を表現していた。

別のリスナーのときには、映画「アバター」の登場人物のようだった。


フォーカシングのときには、リスナーは、決めつけたり、コントロールしたりせず、ただ心を開いてそこにいて、相手の気づきが深まるように見守り、相手の言う言葉をくり返す。

そんなニュートラルな立場でいても、その人の持つ個性は、相手にしっかりと影響を与えてるんだな、ってあらためて実感した。


人と人との出会いは化学反応のように感じられる。それぞれの個性が反応しあって、そのつど違う何かが生み出されていくんだな、と思う。

自由な子ども


昨日考えていたこと(真ん中の子)のつづき。

真ん中の子。
兄弟に対する責任を主にもつ立場でもなく、
手をかけられる末っ子でもない立場。

そこから生まれる、ふらっとどこかへいってしまいたい気ままさは、
自由、とも、あきらめを伴うさびしさ、ともいえそうだな、と思う。

ひとところに留まらず動き続けるクセが、
なんとなく胸の奥にあるさびしさを感じないようにするためなら、
いつまでも落ち着かない気持ちがつづくかもしれない。

真ん中の子でもその感じかたの程度はそれぞれにちがいがあるし、
真ん中の子でなくても、子ども時代、家庭のなかで確たる居場所がないように感じていた場合はたぶん同じ。


落ち着かない気持ちで動きまわる場合、さびしさの正体をみつめて受け入れられたら、
怖れに駆り立てられるのではなく、変化を楽しむ自由な気質として発揮できるようになるんだろうな。





*****

☆HP:惑星ノート『before / after その2』更新しました☆





 

言葉とカラダ

フォーカシングというのは
カラダの感覚から、その奥にある感情に触れていく、カウンセリングの技法の一種。

たとえば、カラダの一部が冷たいとき、胸のモヤモヤや痛みを丁寧に感じて寄り添うイメージをしているだけで、冷たかったその部分が、温まっていくことがある。


否定的な言葉や考えを自分に向けると、脳が「自分は生きていてはいけない」と判断して、細胞を弱らせていく、という話を聞いたことがある。
その話と繋がる現象だなぁ、と思う。

私の中の

昨日は、月に一回のフォーカシングの勉強会だった。

フォーカシングは体の感覚から、そのとき感じている気持ちを探っていく、カウンセリングの一種。


昨日意識していたのは、感情や体に感じる何か、と自分自身を同一化させない、ということ。


たとえば、「私は悲しい」と言ったら、私=悲しみ、になるので、悲しみのループから抜け出しにくい。


でも、「私の中に悲しんでいる一部分がある」と言えば、悲しみは"私"の一部分なので、私がその悲しみから少し離れたところから、悲しみに寄り添い、何を言いたがっているかを聴いてあげることができる。


昨日、私の体の感覚から出てきたイメージは、元気にピョンピョン飛び跳ねている女の子と、それを温かく見守っている思慮深そうな女性。

そして、その光景をみて、「気持ちよい」と感じている”何か”。

”私”は、そのすべてを全体的に見守っていて、その女の子に寄り添ったり、女性に寄り添ったり、”何か”の感じに寄り添ったり、できる。

そうすると自然に理解できてくることもある。


私は、このときのイメージから、「私のなかの元気な女の子がノビノビ動いていくのに、ついていけばいいんだな」と理解できた感じ。




理解すること

20130812_231655.jpg

今日は心理学的なアプローチで星を読む研究会。


子どもの頃に厳しい環境で育つと、そこで生き抜くためにさまざまな防衛手段を身につける。

その防衛手段は、くせになっている。

だから、大人になって、もう必要がなくなったとしても、無意識に使ってしまう。

そのクセが、ものごとを複雑にしてしまう場合は、変えていくほうがいい。

そのためには、まず、クセができていった背景を理解すること。

理解するのは、許さなければならない、ということではなくて、ただ知る、こと。


子どもの頃の環境でできたパターンが、今も影響してるっていうのは、人の心や行動を考えるとき、根っこにあるテーマだな。。。

クリアリング・ア・スペース



まずはその場をスッキリさせること。

ごちゃごちゃになっているものを、ひとつひとつ確かめながら、置き場所を決めていく。

これは心のなかの話。

ひとつひとつのモノゴトには深入りせずに、

ただ、「あ〜、これが気になっていたんだ」と確かめて、いいと思う場所に置く。

イメージのなかで。


上の写真の部屋だったら、目には見えないけど、心のなかから取りだしたものが、畳の上にあれこれ並んでおかれているイメージ。

自分から、近くでも遠くでも、「あ〜、ここがいいな」と感じるところに置く。

そして全体を眺める。

たとえば、
○返信しなければいけないメール、
○提出期限のあるレポート、
○職場でのいざこざ、などが並んでいるかもしれない。

”いろいろ気がかりあるみたい。”

(もちろん、そのなかには、楽しみにしているモノゴトもあるだろうな)


こうやって自分の心のなかを整理するだけで、モヤモヤしたものの理由が分かってくることもあるし、どうすればいいのか決められる場合もある。

「このことは、すぐには手を付けなくていいかな」と意識的に後にまわすことで、今は気にしないで済むモノゴトもある。
そうすると、今する必要のあることに集中しやすくなる。
 



*****

☆HP:惑星ノート『タロットカードで心の整理をする』更新しました☆

池上梅園

今日は池上梅園の茶室でカウンセリングの勉強会。

ここの茶室は、昔、本当に使われていた建物を移しかえているので、懐かしい風情がある。


うすぐらい廊下の向こうに差しこむ光と緑がまぶしい。


部屋の横には池があって、流れる水の音が涼やか…


梅園はシーズンオフということもあり、人がとても少ない。

茶室は、お茶会の催しがたいていあるのだけど、今回は私たちだけで、とても静か。


午前中に降っていた雨はやみ、しだいに陽がさしてくる。

濡れた草木のしたたりそうな緑色、呼吸がらくになっていく。

自然光だけの畳の部屋、やわらかな影と窓辺の光、懐かしくてホッとする。



今日のセッションで感じたのは、シンプルさ、素直さ。

すでにある豊かさを、「ありがとう」といって受けとること。


怖さや不安で固くなった心はいろいろなことを複雑にする。

頭では分かっていても、身についたクセはすぐには手放しにくいところもある。


でも、今日は、この雰囲気のなかで過ごしただけで、心が開いていった感じ。

ゆったりと優しい気持ちになる。


私はイメージのなかで、冷んやりとした甘い水をごくごくと飲んだ。

いくらでも飲んでいいよ、と声がして、なんだか楽しくなってくる。


すべての条件がそろって、贈り物のような気がする時間だった。




まなざし



「わたしは心を開いてここにいて、あなたを見守っています」

そういう気持ちで、なんの判断もせずに、純粋に話を聞いてくれる人が目の前にいると、心がやわらかく素直になる。

ひとりでは見つけにくかった自分の本当の気持ちにも気づきやすくなる。

これは、フォーカシング(カウンセリングの一種)の勉強会でいつも感じること。


言葉にしていないとしても、まなざしや気配で伝わる人の存在感ってある。

どんな気持ちを抱いてその場にいるか。

それだけで、その場の空気感はかわっていくものなんだな〜、って思う。




*****

☆HP:惑星ノート『あなたのなかに眠る物語を思い出して〜魚座会〜その1』更新しました☆






ウサギを追いかけて!



今日は 横浜市石川町のヒーリングハウスハプナで、星科プログラム・応用講座と補講。

そのあと、オーナーのマリエちゃんたちと情報交換(おしゃべりともいうw)

(写真はマリエちゃんが作りかけていたリボンレイ。南の海みたいで素敵♪)


いっしょにいたある方が、

「最近、なんにもやる気がしないの。
ただずっとネットで気になるタレントさんの情報を追っかけてるだけ。そんなんでいいのかな〜」、と。

私は、やる気がでないときって、心で望んでいることと頭で考えていることが一致していないときじゃないかと思う。

だからそういう話をして、

「”なんにもしない”、といっても、気になる人を追っかけているならいいのでは〜?それが実は大事なことかもしれないよ」、と言った。

「ほら、不思議の国のアリスが白いウサギを追っかけていったようにね」、と。

するとその方は一瞬、黙り込み。そして、

「あのね〜、そのタレントさん、中国でのあだ名が”ウサギ”なんだよ…」、と言った。


おー、なんだろうこのピタっとくる感じ。暗号みたいでおもしろい。

ふっと頭に不思議の国のアリスの白ウサギが浮かび、なにげなく口にしただけなのに。



そして思い出したのは、『不思議の国のアリス』を原作としてアレンジした映画
『アリスインワンダーランド』

この映画は少女の成長の物語だと思う。

ちょっとグロテスクに描かれていた不思議の国は、抑え込まれていた感情の世界のように見えた。

アリスはウサギを追いかけてそこに入りこみ、冒険し、最後には赤の女王に戦いを挑み、勝利する。

抑え込まれて陰になっていた感情は、気づいてもらいたいために、モンスターのようになるときがある。

赤の女王がはなった巨大なドラゴンとの戦いは、自分の陰の感情との戦いだったかもしれない。


たいしたことないと、いやむしろ、くだらないと感じること、それでもどうしても気になってしまうこと。

もしかしたらそこには、閉じられた心の扉をひらく、カギがあるかもしれない。