2018.01.30 Tuesday
心の池に飛びこむカエル
せんじつ、なんとなくつけていたラジオで、松尾芭蕉の生涯を、物語ふうに聴いた。
芭蕉は、ただの言葉遊びだった俳句を、芸術に高めた人だという。
藩の誰もが認めるほど、文芸の才にたけた芭蕉は、俳句の魅力にとりつかれ、
そのころ、ただの言葉遊びとして、おもしろおかしく場を盛り上げるためにつかわれているのをみて、そうじゃないんだ!とつよい違和感をかんじていた。
「ちがう。俳句はそれだけのものじゃない。もっと深く感性に触れる何かを、表現できるはずだ」、と。
芭蕉がその信念を表現し、認められるきっかけになったのは、この句だ。
古池や蛙とびこむ水の音
この句がなぜすごいのか。
芭蕉は、蛙が水に飛びこむ音を耳にして、「蛙とびこむ水の音」と下の句を先につくる。
そうして、目を閉じて考え、「古池や」と上の句をつけた。
芭蕉は、水の音を聞いただけで、蛙が飛びこむところを、実際に目でみたわけではない。
目を閉じたとき、芭蕉が見たのは、自分自身の心の風景だった。
こうして、俳句は、目に見えない感性を映しだす芸術として、表現されるようになる。
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わたしは、昔から俳句が好き。
言葉じたいが好きなので、五 七 五 という短さで、ある風景が浮かんでくるのが素敵だし、研ぎ澄まされた言葉への感性があるように感じて、かっこいいと思っていた。
だから、このストーリーも興味深く聴いてた。
そして、はじめて俳句の魅力が、バチっと分かった気がした。これまでの、なんか良いよね、くらいの受けとめかたとは、雲泥の差だと思う。
芭蕉の心象風景が描かれていると知り、あらためてその句を思い浮かべたとき、わたしの心の奥でも、パシャんと水の音がした。
小さなカエルが、わたしがすっかり忘れていた、思い出の池のなかに、つつーーっと潜っていく。
心のなかでさざ波が、かすかに揺れる。
そして、わたしはその夜、すこし切ない夢をみた。
起きたあともしばらく、ぼんやりともやのような悲しみが残っているような。
それをただ感じて、ゆっくりと起きだし、いつものように過ごしているうちに、そのもやは晴れ、清々しい気分になった。
カエルは岩の上で、あたたかい陽射しを浴びている。